私は都内でデザイナーをしている、うつ病の一般女性です。
普段は仕事も出来ていますし、人と話す事も出来ます。実家暮らしなので家族と会話もします。
ですが、この生活が送れているのは毎晩飲んでいる精神薬、抗うつ薬のお陰です。
以前、薬を変えたとき、動けない、話せない、涙が止まらない、消えたい、怖くて消えられない、自分なんて生きている価値も資格もない。
そういう絶望感を体感したので、いかに薬に助けられて生活を送れていたか実感しました。
私はうつ病ですが普段は薬のお陰で気分変調症レベルで、抑うつ感が持続している感覚です。
今このようになってしまった原因は、私の場合ですと家族です。それなのに、実家で暮らしているなんておかしいじゃないかと思われるのではないでしょうか。
はい、おかしいです。理由は母との時間を大切にしたいからです。父からモラハラを受けて育ち、うつ病、不安症、自傷行為、不眠症、悪夢、パニック障害、対人恐怖、離人症、すぐ過労になるという症状を発症させました。
父には恨みはたくさんありました。でも結局、自分との闘いなので、今では父を責めるより自分のマインドをどうコントロールするかが重要だと思っています。
先ほど少し触れましたが私が母との時間を大切にしたいというのは、兄に母のと時間を奪われて来たからです。兄は重度の自閉症なので、幼い頃から私は17時まで保育園、兄はお昼には母に幼稚園に迎えに来てもらい、その後も母が面倒をみるという生活で、それ以降も何かにつけ兄が優先でした。
そして兄妹間での差別です。兄が小学6年生で母との特訓の末、一輪車に乗れるようになりました。私は小学1年生の頃には朝の校庭開放で練習し乗れるようになっていました。兄が一輪車を乗れるようになった時、母は泣いていました。私が小学1年生のとき乗れるようになったと報告すると、「やっぱり健常児はすぐに出来ちゃうんだね」と言われました。
小学4年生から始めた水泳では、中学に上がる頃には選手コースまで到達しましたが、健常児なので普通というリアクション。
その後、中高6年間で続けたバスケットボールは、最後の試合を観に来た父に「6年間やってこんなもんか」と言われました。
中高の理系の成績はオール5、それなのに「なぜ国語と英語が3なんだ」と指摘されて来ました。得意不得意はあるのが人間だと思うのですが。
ここまでは前置きです。私が許せなかったのは、兄が「ありがとう」を言えるだけで、両親から与えられる賞賛「偉いね、凄いね」という言葉を、私はこれまで与えられて来なかった不平等に憤りを感じていて、それを今でもずっと引きずっていて不平等が許せない人間になってしまったことです。
また、大人になってから私はASDと診断されました。つまり私も自閉症スペクトラムだったということです。私の場合、一見すると普通の人です。変わっているね、と言われて大人になり、今でも言われることもありますが、当然と言えば当然なのです。今では個性だと捉えています。
ここまで、軽く過去についてお話して来ました。まだまだ掘り出し物はたくさんありますが、徐々に出していこうかなというのと、その苦しみを乗り越えて、何を得たか。また、日々どのような事を考えて、思って生活しているか。解決策はあるのか。そこら辺をゆるく綴っていけるブログにしようと思います。
人は皆、悩み苦しみ、その中で生きている。そしてどうしたら抜け出せるのか、闘っている。だから、少しでも共感していただけたり、何かの救いになったり出来るブログを目指しています、そうなったら嬉しいです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。ゆるく更新していきますので、気が向いたら読んでいってください。
高校在学中、臨床心理士を目指して認定心理士を取得できる大学へ進学。大学2年生の冬、家を追い出される。自分の将来を再び見つめ直し、大学4年生の在学中にデザイン専門学校とダブルスクールをはじめる。デザイナーとして就業中。うつ病、離人症などを発症中。日々、何のために生きているか考えること、心に響く歌詞や映画、ドラマや本に触れることが趣味。